Tropyを出すまでもなくWebは0.5である

最速Ajax版の登場で一通り出揃ったように見えるTropy。文字通り、僅か一週間足らずで駆け抜けた青春だった。装飾を省かれたシンプルな構成、ユーザに不自由を強いる細かな制限。全体、Tropyの何が素晴らしかったのか――それは、彼が正直に「私は0.5である」と宣言していたということである。
Tropyの有無に関わらず、そもそもMosaicブラウザやWindows 9Xの相次いで登場した1990年代にWWWが一般への普及を始めて以来、Webの本質はランダムネスにあった。参照と引用による情報構造化のシステムが確固として存在したアカデミックな世界から一歩踏み出すや、ハイパーリンクはカオスの促進剤にしかならなかった。Web 2.0と呼ばれる何かによってユーザの体験がリッチになる一方で情報の集合は肥大化/多様化を極め、Webの万能感に対して現実には各々のユーザがその道具を使いこなすことは不可能であり続けた。一般のユーザが1.0以下の世界におめおめと踏み止まる一方、先駆的なユーザは容易に手段と目的とを履き違え新しいWebをフォローすること自体が彼らの存在理由と化した。
繰り返す――Webは本質的にランダムネスの培養層であり、またそれ自体が混沌である。Yahoo!Googleが半ば躍起になってWebを秩序ある場所へ変えようと努め、実際にその企みは一定の成果を生んでいるものの、多くのユーザはWebの「見えない部分」がそれ以上の勢いで増殖していることを知っている。50%でサービスをリリースするなどという方法論がスタンダードになれるWebは2.0どころか1.0さえ自称することのできない永遠のβ版なのである。これはWebの欠点ではなく単なる性質だ。Tropyハイパーリンクを排除することによって閉じた集合を作り上げ、情報そのものの爆発力と輝く2.0の神話によって人々が曖昧にしか認識することのできなくなっていたWebの能力と限界とを逆説的に浮かび上がらせてみせたのである。たとえ字数の制限がなくともWebは不自由なメディアであり、たとえ隅々までハイパーリンクの網が張り巡らされていたとしてもWebはランダムなのだ。
単純にランダムネスによって思考を刺激するだけであれば、古くはfortuneコマンド、最近ではFotolife Desktopなどという広く知られた先例が存在する。それにも関わらずTropyがこれほどの盛り上がりを見せたのは、彼が単なる一アプリケーションではなく巨大なブラックボックスと化したWebの実体を垣間見せる指標だったからである。彼はハイパーリンクの網を持たないにも関わらずそれ自体が「Web的なもの」であり、したがって彼はWebの部分集合ではなく「小Web」あるいは「擬Web」と称されるべき存在だった。彼は各所で飽きやすさを指摘されているが、それはWebの本質であって彼の本質ではない。現在のWebユーザはTropyレベルのモデルであれば数時間で理解する程度には成長しているのである――たとえ、Web 2.0が単なる幻想であるにせよ。一方、日々成長を続けるWebそれ自体を体験し尽くすことは不可能であり、その本質に飽きやすさがあるにも関わらず現実に飽きられることはない。逆に――極論してしまえば――Tropyは飽きられることによって本家であるWebを差し置き成体=1.0になるのである。
瞬く間に多くのクローンが登場した背景には、Tropyが極めてシンプルな構造を持っており、したがって開発言語やライブラリのデモンストレーションあるいは教材として最適だったという事実がある。もちろん、Tropyが教材として有用なのは制作側に対してのみならず、ユーザにとっても同様だ――Web利用の入門編としての安全な閉鎖系になり得るのは、Webを歪ませたSNSなどではなくWebを純化したTropyに他ならない。オリジナルが休眠しクローンが林立する現状は極めて象徴的である。仮にTropyクローンのコミュニティが今後も発展を続けるとすれば、必然的にそれはWebの歴史を段階的に追い駆ける系譜を形成するはずだ。そのとき、一連のモデルは学童を始めとした初級ユーザに対する教材として有効に機能することだろう。Webとしての特徴を極限まで省いたTropyは、しかし紛れもなくWebの縮図だからである。